玉の話

 三島由紀夫の『午後の曳航』は残虐な少年の主人公が出てくる為か神戸連続児童殺傷事件と結び付けられたり、何かと物議を醸す作品であるようだ。自室の覗き穴から隣室で母が夜な夜な営む性行為を監視する少年と、母の相手の男といった三人の登場人物をオイディプス的見方をすることも可能だろうが、私は映画版の『午後の曳航』のあるシーンが気になって仕方がない。

 少年は冒頭シーンで、夜中に友人たちと家を抜け出しポルノ画を見るのだが、翌朝に母によって昨晩の外出を咎められ外出先での出来事を執拗に詰問される。詰問後に少年は朝食の玉子を握り潰し目玉がアップされるのだが、これはまさにバタイユ的と言えるのではないだろうか。その後のシーンでも、母の性行為を覗く度に少年の目玉はアップになるが、これは玉子(œuf)と目玉(oeil)は金玉(couille)の連想をさせ、少年は母に自身の性の目覚めを咎められたことで自らの"金玉(oeuf)"を握り潰し、また母の性行為を覗く度に"金玉(oeil)"をパンパンに膨らますのだ。この分かり易すぎるほどの明確な連想ゲーム的比喩はこの映画の、そして三島の魅力である。

 更に、明確な比喩は他にも、母が航海士の男と出会うシーンでは、船内のタービンは幾度も蒸気をあげ、ピストン運動をする機器まで映し出される。そしてその後、母は男に「出会った時から恋に落ちていた」と打ち明けるのだ。勿論それぞれが何を示すかは言うまでもない。

 三島の『午後の曳航』を、少年が母の恋人を殺す話などと読んではならない。この作品はそんなところよりも連想ゲーム的な分かり易すぎる比喩が問題であり、そのやり過ぎとも言える比喩こそが魅力なのである。

 三島作品は、バタイユの言うような「エロティシズムの死への邁進」を体現化したものが多いが、これは文学という芸術であり、彼の美学の体現化でもある。武田鉄矢はエロティシズムと死の分離が出来ない若者を否定し、神戸連続児童殺傷事件はそのような少年によって起こされたと主張するが、エロティシズムと死の分離は必要がない。ただ、その素晴らしき感性を実際の殺人ではなく、如何なる芸術活動に変換出来るかが大切であり、変換しやすい世の中を作るべきなのである。その為にも学校教育における思想の押し付けの独裁的な読書感想文や作文というものを辞め、なんとも馬鹿馬鹿しい熱血教師のお涙頂戴な「学園ドラマ」から我々は解放されなくてはならないのだ。紙の上である限り、何を書こうと私たちは自由である。少なくとも個人が人に見せることもなく自分のために書く限りは。

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 [DVD]

午後の曳航 [DVD]

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

新宿ゴールデン街-エピタフカレー

 呑べえの 聖地「新宿ゴールデン街」も、昼間はかなり閑散としている。しかし、ゴールデン街のある一軒のバーに昼間はカレーを出している店があり、それがかなり本格的で美味しい。「エピタフカレー」というところだ。

 カレー一杯800円、あいがけ(ハーフハーフ)で1000円。カレーはポーク、チキン、シーフード(カジキ)の3種類。あまり目立つ場所ではないが12時のオープンと共に続々とOLが入っていた。

 私はチキン(マイルド)のパクチー抜きを頼んだが、スパイスは効いているが刺激は少ない優しい味だった。辛いのが苦手でもこれなら食べれそう。f:id:clm_kt:20170428225444j:imagef:id:clm_kt:20170428225447j:imagef:id:clm_kt:20170428225453j:image

不可解に慣れること

 先日はっきり言うと理解不能な映画を見てしまった。『エヴォリューション』という映画だ。この映画、カズオイシグロ『私を離さないで』やシュペルヴィエル『ひとさらい』を彷彿させるのだが、とにかく画面は終始どんよりとして暗いし、妊娠や出産の生々しい描写に息が詰まる。

 映画は終始セリフが殆ど無くストーリーすら自分の思い描いている物が正しいのか不安になってくる。勿論、監督は正しいストーリーなどという物を想定していないのかもしれないし、別に正解を探そうという気にもならないのだが、ただ余りの理解不能さに気味悪さを感じた映画だった。

 この映画を見て何かをうまく言うことは、今の私には出来ない。何かうまく自分の思うことを表現できるようになったら此処を書き換えようと思う。

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

ひとさらい (光文社古典新訳文庫)

ひとさらい (光文社古典新訳文庫)

 

 

中野-アザミ

中野ブロードウェイ

この言葉を聞くだけでワクワクする。「まんだらけ」や「古書うつつ」に並んでいる本を眺めているだけでゆうに半日は消えてしまう。

 そんな古本街から少し離れ、駅近に喫茶店アザミはある。ここは料理が美味しいことで有名で、昼時には40分並んだという人もいるらしいが、平日の午後である今日は、比較的空いていた。ブランドとチーズケーキを頼んだが、出てくるのに10分以上かかったため少し不安になったが、ゴージャスな盛り付けを見れば納得した。コーヒーは酸味が強め、チーズケーキはかなり濃厚で、あっさりしたものが好きな私にはどちらもあまり得意ではなかったが、濃厚なものが好きな人はハマるのだろう。f:id:clm_kt:20170426181742j:imagef:id:clm_kt:20170426181746j:image

反復語とエロス

 近頃、「文学」の定義があやふやになってきているが、”文学”的なものとは、読前/後で何か自分を変えてくれ、見返す度に違う顔を見せてくれるものではないかと私は考えている。私が初めて”文学”と出会ったのは、あの教科書に載っている『高瀬舟』を読んだ時でも『吾輩は猫である』を読んだ時でもなく、中学生の時、大江健三郎『死者の奢り』を読んだ時だったことはよく記憶している。

 日頃から純文学を読むわけではないという友人が「谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んで”文学”を感じた」と先日言ってきた。そんな友人が『春琴抄』の次に読もうと手に取ったのが坂口安吾『白痴』だという。思い返せば、私も高校生の時に『春琴抄』を読んで驚嘆し、その次に手に取ったのは『白痴』で、これも大変気に入ったので、その話を聞いた時、なんだかとても嬉しくなったのだった。

 『白痴』というのは纏めたら、主人公が空襲下で隣人の白痴の女を自室に匿い、肉欲に溺れていくという<デカダンス派>な作品であるのだが、この作品の良さは性行為の描写が殆どないのにも関わらず性行為を彷彿させて来ることだ。

 『白痴』は作中で主人公が女を匿ってから文中に反復語が増える作品である。主人公の家を空襲が直撃する4月15日には「愈々」「やれやれ」「長い長い」「早く早く」(他は略)と徹底的に反復語が用いられている。この言葉を「反復させる」という作用はまるで性行為の運動を表しているようではないか。タナトスの近づく情景にエロスを持ち込むのに、「反復」という言葉の作用を用いるという坂口の書き方に私は大変驚嘆したのだ。

 性的な描写を描こうとするのに下品なオノマトペや直喩表現を用いるということはよくあるが、坂口のように行為自体は描写せずに言葉の作用によって表現するというのは決して簡単なことではない。

 きっと主人公は空襲下で死に隣接した時も、白痴な女に欲情していただろう。そのことは、この「反復」という言葉の作用が明らかにしてくれるのである。

 

 

 

白痴 (新潮文庫)

白痴 (新潮文庫)

 

 

 

 

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 

浅草-珈琲天国

 浅草の雷門だとかを潜り抜けて、アーケード商店街よりも奥に進んで行く。浅草のいわゆる観光スポットの終わりとも言える所に、カフェ「珈琲天国」はある。

 ここのコーヒーは少し薄めで酸味は抑えめ、天国と刻印の入ったパンケーキが可愛い。近頃は分厚くてクリームがたっぷり乗ったパンケーキが流行りがちだが、こういう素朴なものも良い。ちなみに、パンケーキとホットケーキの違いは薄さの違いらしい。

 休日は外に行列が出来るほど人気のお店だそうだが、平日だからかそれとも雨だからか、客は自分以外には1人のみ。その1人は白髪の男性で、煙草を吸っている。決して広い店内ではないが、落ち着ける空間だった。

 

BRUTUS特別編集 合本・最高のおやつ (マガジンハウスムック)

BRUTUS特別編集 合本・最高のおやつ (マガジンハウスムック)

 

 

f:id:clm_kt:20170426180611j:imagef:id:clm_kt:20170426180700j:imagef:id:clm_kt:20170426180710j:image

ひらがなにエロを感じるとき

 初めてこの作家を知ったのはいつだったろうか。また、初めてこの作家の作品を読んだのはいつだったろうか。残念ながら正確な日時を思い出すことは出来ないが、初読の時の感想は「随分エロティックな文体を持つババアが世の中にはいるものだ。気持ちが悪いなあ」だったことだけはしっかりと覚えている。

 そんな小説家であり歌人である、岡本かの子の選集が今手元にある。成人した今、読み返してみると結構良いものだ。それは自分も年を取って、ババアの書く恋愛に嫌悪感を抱かなくなったからだろうか。若しくは、人生はそんなに甘ったるい全部載せのパフェのような恋愛ばかりではないと知り始めたからであろうか。こんな話を金曜の夜、私の慕う先生と呑みに行く機会があったから話した。すると、先生は一言「それは良いことよ。」という。先生によれば、あの独特なエロティックさとグロテスクさを持った岡本かの子の文章に惹かれるようになれれば、良いセンスになってきているそうである。そもそも”良いセンス”とは何なのか。そんなことは取り敢えず置いておこう。岡本かの子は少しずつ大人になり始めている私にとって魅力的なのである。

 岡本かの子の文章の何が良いのかと聞かれた時、あの文体のエロさはどこから来るのかと考えた時、まさに「ひらがな」こそがその原因なのではないかと思う。

 彼女の句に<唇を 打ちふるはして 黙したる かはゆき人を かき抱かまし>というものがあるが、この「ふるはして」という平仮名が個人的にはとても官能的に見えるのである。大抵の日本人であれば、おそらく最初に覚える字というものは「ひらがな」であろう。あの初めて自分の名前を書く喜びを共有する「ひらがな」。それにもかかわらず、小学校に入学するとすぐに漢字をたくさん使えるのが偉いということになり、邪険にされてしまう「ひらがな」。「ひらがな」だらけの文章は子供っぽいと思われがちだが、その子供も使う字で恋を描くことはとても官能的ではないか。通園バスに乗っている子どもでも知っている字で、お風呂の中でひらがなシートなぞを利用して必死に子供が覚えている字で、恋心を描く背徳感。それも肉体的な恋も隠さずに書くなんて、とてもエロティックである。

 『鯉魚(りぎょ)』に書かれるような切なさを良いといっても、『金魚撩乱(りょうらん)』内での、初恋心を喉に張り付いた桜の花弁と重ねる隠喩描写を良いといってもいいのだろうが、岡本かの子の魅力はやはり「ひらがな」への執着である。

 先生は専門としているアンドレ・ジイド(今では”ジッド”と表記するのが普通であるし、先生もカタカナを板書する時はジッドと書くのだが、”ジイド”の方が正しい発音だとしきりに主張するのだ)と岡本かの子の関係性を話し始め、『太郎への手紙』内の「アンドレ・ジイドが転向したって?」という一行を嬉しそうに指して私に見せてくる。そして話はどんどん変わり私が『少年愛の美学』(稲垣足穂)には流石についていけないということを言うと、「かの子の魅力に気付いて、あれが読めないならあと一歩ですね」と先生は返答してこの日の蕎麦屋での呑みはお開きとなった。

 『少年愛の美学』と言えば、辞書に載っている「コウ」から始まる単語を肛門の「肛」の字に変えても違和感がないし、むしろ良いものもあると主張して単語を列挙したことで有名であるが、私もひらがなで書いた方がエロいと思われる単語をここに列挙してみようか。そう考えると、バカバカしくも思える列挙を大真面目に本当にやってみせた稲垣はやっぱりすごいのかもしれないなどと考えるのである。

 

 

岡本かの子 (ちくま日本文学)

岡本かの子 (ちくま日本文学)