ひらがなにエロを感じるとき

 初めてこの作家を知ったのはいつだったろうか。また、初めてこの作家の作品を読んだのはいつだったろうか。残念ながら正確な日時を思い出すことは出来ないが、初読の時の感想は「随分エロティックな文体を持つババアが世の中にはいるものだ。気持ちが悪いなあ」だったことだけはしっかりと覚えている。

 そんな小説家であり歌人である、岡本かの子の選集が今手元にある。成人した今、読み返してみると結構良いものだ。それは自分も年を取って、ババアの書く恋愛に嫌悪感を抱かなくなったからだろうか。若しくは、人生はそんなに甘ったるい全部載せのパフェのような恋愛ばかりではないと知り始めたからであろうか。こんな話を金曜の夜、私の慕う先生と呑みに行く機会があったから話した。すると、先生は一言「それは良いことよ。」という。先生によれば、あの独特なエロティックさとグロテスクさを持った岡本かの子の文章に惹かれるようになれれば、良いセンスになってきているそうである。そもそも”良いセンス”とは何なのか。そんなことは取り敢えず置いておこう。岡本かの子は少しずつ大人になり始めている私にとって魅力的なのである。

 岡本かの子の文章の何が良いのかと聞かれた時、あの文体のエロさはどこから来るのかと考えた時、まさに「ひらがな」こそがその原因なのではないかと思う。

 彼女の句に<唇を 打ちふるはして 黙したる かはゆき人を かき抱かまし>というものがあるが、この「ふるはして」という平仮名が個人的にはとても官能的に見えるのである。大抵の日本人であれば、おそらく最初に覚える字というものは「ひらがな」であろう。あの初めて自分の名前を書く喜びを共有する「ひらがな」。それにもかかわらず、小学校に入学するとすぐに漢字をたくさん使えるのが偉いということになり、邪険にされてしまう「ひらがな」。「ひらがな」だらけの文章は子供っぽいと思われがちだが、その子供も使う字で恋を描くことはとても官能的ではないか。通園バスに乗っている子どもでも知っている字で、お風呂の中でひらがなシートなぞを利用して必死に子供が覚えている字で、恋心を描く背徳感。それも肉体的な恋も隠さずに書くなんて、とてもエロティックである。

 『鯉魚(りぎょ)』に書かれるような切なさを良いといっても、『金魚撩乱(りょうらん)』内での、初恋心を喉に張り付いた桜の花弁と重ねる隠喩描写を良いといってもいいのだろうが、岡本かの子の魅力はやはり「ひらがな」への執着である。

 先生は専門としているアンドレ・ジイド(今では”ジッド”と表記するのが普通であるし、先生もカタカナを板書する時はジッドと書くのだが、”ジイド”の方が正しい発音だとしきりに主張するのだ)と岡本かの子の関係性を話し始め、『太郎への手紙』内の「アンドレ・ジイドが転向したって?」という一行を嬉しそうに指して私に見せてくる。そして話はどんどん変わり私が『少年愛の美学』(稲垣足穂)には流石についていけないということを言うと、「かの子の魅力に気付いて、あれが読めないならあと一歩ですね」と先生は返答してこの日の蕎麦屋での呑みはお開きとなった。

 『少年愛の美学』と言えば、辞書に載っている「コウ」から始まる単語を肛門の「肛」の字に変えても違和感がないし、むしろ良いものもあると主張して単語を列挙したことで有名であるが、私もひらがなで書いた方がエロいと思われる単語をここに列挙してみようか。そう考えると、バカバカしくも思える列挙を大真面目に本当にやってみせた稲垣はやっぱりすごいのかもしれないなどと考えるのである。

 

 

岡本かの子 (ちくま日本文学)

岡本かの子 (ちくま日本文学)